※ この記事は、KIESS MailNews 2013年7月号に掲載したものです。
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今回の主題は
前二回に亘って、「アベノミクス」なるものが一体何なのか、とても不思議な現象なので、少し経済の勉強をして論じてみようとしました。しかし、リアルタイムで大きく振れる経済社会の動き、将来動向に関する正反対の予測などがなされ、また、どれが本当なのか素人には分らない論争が専門家と称する人たちによってされていて、これ以上踏み込むのが段々面倒になってきました。というより、これらを見ていると、経済が活性するのかしないのかという枠内だけの議論以上に、もっと大事なことがあるのではないかと改めて思いました。それは結局、「誰のための経済活性化なのか」というまさに原点の部分です。ということで、今回は少し次元の異なる面からの考察をしてみたいと思います。
誰のためのアベノミクスなのか(再考)
実は、この面からの問題提起も新聞などで頻りにされています。「大企業は輸出が上向いて儲かっているが、庶民は生活必需品が円安で値上がりしてマイナスを蒙っている。」といった話です。円安になればこうなるのは分っていたことです。
ところで、企業がもうけた利益は大きく株主に行っているが、従業員の給与は逆に下がっているというデータがあります(図1)。これを見ると、この10年間に正規の社員でも特に中高年で大幅に給与が減少していて、非正規雇用の増大も含めると従業員の取り分はどんどん減っていて、企業の得た利益は株主と企業内部の蓄積に大きく行っていると想像されます。
さらに加えて、大きなばらまきのバランスをとるために、消費増税や生活保護費、子育て支援などの福祉系の予算は削減される方向ですから、いわゆる庶民には何重苦にもなるでしょう。
図1:企業の株主配当と従業員給与の関係1)
本当の国の豊かさとは何なのか?
このような一連の政策は、基本的に安倍政権が「新自由主義」に立っていることから、当然の方向でしょう。つまり、国というのは、“自由な経済競争で頑張った産業によって金を稼ぎ、庶民はそれを支えて給与をもらって幸せになる”という定義だと理解されます。この定義そのものが正しいのか間違っているのかを判断するのは難しいことですね。国民はいま圧倒的に安倍政権を支持しているのですから、“国とは産業が発展することが第一に大事である”という「産業国家論」に同意していると見るべきでしょう。しかし、本当にそこまで認識して納得しているのでしょうか。
これを考えるには、二つの課題があります。一つは「新自由主義」の論理が本当に正しいのかという、客観的な“真”についての考察です。これは経済理論の枠内の議論で、前二回の本ニュースの記事で、門外漢なりに書いてみようとした部分です。もう一つは、この経済政策が国と国民にとって正しいのかという議論です。これは、“真か偽か”という科学面よりもさらに難しい“正か悪か”という社会の“善”の問題です。つまり、「誰にとっての豊かさか」が社会的な正義なのかという難しい議論と、さらにその背後にある「国とは、国民とは何か」という定義にまで関係してきます。
「新自由主義」の主張は本当か?
素人には難しいとして経済理論への言及を放置しようとしたら、経済専門の親友がとりあえずこれを読んでみてはと、「分かち合い」の経済学(神野直彦著)2)という本を貸してくれました。なるほど、実に簡潔に「新自由主義」の尤もらしい論理が、どれほど欺瞞に満ちたものであるかを書いてくれていますので、その要点を以下に孫引きさせてもらいますと、
「小さな政府」が経済の自由競争を活発にして、経済成長をもたらすという主張は迷信であって、世界各国のデータでは、大きな社会的支出をしている「大きな政府(例えばスウェーデン)」の経済成長率が日本よりずっと高い。
「財政の赤字」の原因が福祉などの社会的費用にあるとする主張は根拠が無く、実は企業の法人税と高額所得者の所得税を大きく減らしたことに主原因がある。それを解消するためと称して、消費税を上げ福祉予算を減らすというのは全くのすり替えである。
「分かち合いの経済」分野を市場に任せて、人と人の絆といったものを消滅させ、加えて経済格差を拡大させたことが社会を不安定にする。その結果、秩序維持のために膨大な治安維持費や軍事費が必要になっているのはアメリカに見るとおりである。
などなどです。私達がこのような実態を十分知らないままで、いまの経済成長を歓迎しているとしたら、「朝三暮四」の猿を笑えないでしょう。さらにはこの次元で止まることなく、“パックスアメリカーナ”の傘下により強く組み込まれるという深刻な事態にも、知らない間に至っているでしょう。
何が社会的正義なのか?
「新自由主義」なるものの主張が怪しいとして、さらに結局「豊かな者がより豊かになって何が悪い」という社会的正義に関わる議論はどうなるでしょうか?
能力があり努力をした者がそれに応じて豊かになるのが、アメリカでいう「機会の平等」という意味での平等社会です。それによってジョブスなど凄い才能を持った事業家が大きな事業を立ち上げて世界を席巻していて、世界の富をアメリカにもたらしています。その一方で、結果として巨大な格差が生まれてもそれは“それぞれの能力と努力の結果”だから仕方がないとされているようですが、それは日本人にとっては馴染みにくいのではないでしょうか。我々としてはできるだけ皆が同じように豊かになる「結果の平等」が正義のように思い込んでいませんか。けれどこの平等の考えも、その国や地域、その時代の価値観で大きく異なるのでしょう。昔は日本でも階級差が歴然とあったけれど、それは打破すべき仕組みだと考えた人は多くはなかったようですから。
さらにまた、同じ時代、同じ国でも人によっても意見が異なることは当然です。現に、日本でも自民党は結果平等より、努力した者が報われる社会を良しとしているようですし、社民党や共産党は結果が平等であることを良しとしているのでしょう。当然どちらにも賛否はあります。結果の平等を目指して福祉などに力を入れると、ただ乗りが得をして真面目な努力と才能が報われないという批判です。しかし一方、機会平等と言うけれど、すでに格差社会では貧しい家の子供は教育の機会さえ平等には与えられないので、貧困の再生産がされているとの指摘もあります。
このような社会のあり方には、どちらが客観的(科学的?)に正しいのかを決める根拠は無くて、結局多くの人が選択すればそれでいこうというのが選挙ですね。そうすると、数の力での優劣ですが、エジプトのようにそこに武力も介在してきますね。では社会の大勢(選挙でも武力でも)が選択すれば、それでいいのでしょうか? そのこと自体の適否、または正悪を判定するさらに上位の規範(判断基準)はあるのでしょうか?
社会正義の判定基準はあるか?
何が正義かを判断するのが難しいことについては、サンデルさんの講義を参考に、本シリーズでも言及したかと思いますが、そのような社会的合意といった次元を超えた、もっと科学的ともいえる絶対的な社会正義の判断基準はないのでしょうか。それこそ、人類の歴史の中で偉い哲学者や宗教家が数多く論じてきたことですから、浅学の筆者が論じられる課題ではありませんが、最近の科学の成果をヒントに幼稚ではありますが、少し考察してみます。
社会正義を決める規範があるとすれば、その最上位は「宇宙はなぜ存在するのか」ということでしょう。もし、これが分れば、その目的に最も叶う行為が正義であることは、誰も否定できないでしょう。しかし、それは神のみぞ知る究極の謎ですね。
その次の次元の規範は、「人はなぜ生きるか」ですね。もしこれが分れば、少なくとも地上で人が生きていくためには、その目的に最も叶う道が正しい選択となり、異論の余地はありません。この段階にくると、それは「幸せの追求」であるといった、一気に世俗的なテーマに近づいてきます。そうすると、「幸せとは何か」という幸福論の長い歴史が展開されるわけですね。ここでもし“富の蓄積”こそがその最大の要素だと主張し、その手段として産業振興によって世界から金を稼いできて、国が経済的に豊かになることであるという主張が本当に正しいかという議論に決着が付くかもしれません。
参考文献
- 限界にっぽん 第3部・超国家企業と雇用:2「国内に残すなら賃下げ」,朝日新聞,2013.4.29.
- 神野直彦:「分かち合い」の経済学,岩波新書,2010.
(ないとう まさあき:KIESS代表理事・京都大学名誉教授)
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