注釈
- 夏休みに実家に帰った際に、持って行った本を読み終わってしまったので、暇つぶしを兼ねて、子供の頃からよく行っていた書店に寄ってみました。人文系の本のフロアに行くと、NHKの番組で名前を聞いたことのあったマルクス・ガブリエルの本がありました。いつも環境問題がらみの本ばかり読んでいるので、たまには頭の体操に哲学系の本でも読んでみようと思いました。
- この点に関しては、ガブリエル自身も「わたしたちの日常言語は不十分なもので、わたしたちの体験することを本当に捉えることはできません。」と言っているのですが…。
- 図2を描いてみてあることに思い至りました。それは、人間は大昔から「知っていること」(経験したこと)と「理解していること」(説明できること)のギャップを埋めようと悪戦苦闘してきたのであり、今日の科学もそのような活動の一種なのだということです。
- ガブリエルは、自然科学に対して、その限界をわきまえるべきだ、と言っているのですが、同じことは哲学にも言えるのだと思います。
- 「出て行く」とか「戻って来る」という表現は別の世界があることを前提としています。しかし、そのようなところがあるわけではありません。従って、「出て行く」というよりは「消え去る」という表現の方が実情に即しているとは思います。
- 「私」と「私の環境」を合わせたものは、「世界」ではなく、「世界」の一部かもしれません。「生の哲学」を提唱したオルテガは「私とは、私と私の環境である」と述べています。
- だからこそ、私たちは外界に働きかけて、周りにあるものが何であるかを知ろうとするのです。
- ガブリエルによれば、この言葉は米国の哲学者のトマス・ネーゲルのものとのことです。
- 私は「どこでもないところからの眺め」である科学的世界像は、キリスト教の神の概念と密接に結びついていると考えています。キリスト教では、神は時間と空間のどの特定の地点にもいないが、どこにでもいる存在ということになっています。私には、科学的世界像は神の目から見た世界を描こうとしているように思われます。しかし、残念ながら、私たちは神ではないので、神の視点を持つことはできません。
- ガブリエルの二点目の批判は尤もながら、私が常々気になっているのは別のことです。それは自然科学者のなかには現実と地図を混同している人がいるのではないかということです。科学的世界像は、それがどんなに精密になったとしても、現実世界の地図のようなものであり、現実そのものではありません。だからこそ、間違いもあれば、現実世界で生きていく上で、より頼りにできるものになるよう、修正されもするのです。地図を地図として見ているのであれば、科学的世界像は生きていくうえで大変有用ですが、地図を現実そのものと取り違えたとしたら、それは間違いなく誤りだと思います。このような私の見方を、ガブリエルは何と言うでしょうか。
- この文も、構築主義を説明する際の、ガブリエルによるものです。
- これに従えば、私たちが通常「客観的事実」と呼んでいるものは、事後的に構築された社会的合意であり、得られた証言や合意形成のプロセスが異なれば、事実認定も違うものになり得たということになります。いじめ自殺問題における「いじめ行為の有無」の事後的認定プロセスを見ていると、この見方は当たっているような気もします。この点に関しては、北澤 毅 著、『「いじめ自殺」の社会学』、世界思想社(2015)という本が参考になると思います。また、裁判制度というのも、事実が何であったのかについて、社会的合意を事後的に形成し、認定するための仕組みのように思われます。ただ、その場合も一般常識としては「客観的事実が存在する」ということが前提となっていますが、構築主義はそれを認めないということだと思います。
- どうやらガブリエルは、この手の「クレタ人問題」的な議論をするのが好きなようですが、彼は本の最後の「エンドロール」の章で、「実在的なものとして存在するさまざまな見方(パースペクティブ)の多様性を認めることが、まさに、不必要な統一性を目指すことのない現代的な自由の(そして現代のテレビドラマシリーズの)ポイントであるわけです」と述べています。言い方を変えると、多分この言明は、「ある特定のパースペクティブに基づく認識を普遍的であると主張するのは間違いだ」と言っているのだと思います。そうだとしたら、なぜガブリエルはこの本を書いたのでしょうか。それは、彼が「パースペクティブの多様性を認めることが普遍的に重要だ」と考えているからでしょう。しかし、そうすると、パースペクティブなしの立場(どこでもないところからの眺め)はあり得ないので、「パースペクティブの多様性を認めることが重要だ」という彼の主張自体も「ある特定のパースペクティブ」に基づくものであり、それが普遍的に重要だと主張するのは自己矛盾なると思います。もし、彼が自分自身に対してこのような矛盾を許容するのであれば、構築主義に対しても許容すべきだと思うのですが、いかがでしょうか。もしかすると、多様性を認めない自由を認めないガブリエルの主張は、思想と言論の自由を尊重するが故にナチである自由は認めない戦後ドイツ社会のコンセンサスに根差しており、近年それが揺らいでいることへの危機感の表れなのかもしれません。
- この批判は、「全てを疑わしいと考えている懐疑論者も、自分が全てを疑わしいと考えていること自体は疑っていない」という、オルテガの懐疑論に対する批判とよく似ています。
- この「世界に意味など存在しない」という点こそ、自然主義のガブリエルが最も気に入らない点であり、彼は世界における「意味」と「人間」の復権を目指しているものと思われます。
- このような要素還元主義的な考え方には私も反対です。でも、理由はガブリエルとは少々異なります。生物には、分子、細胞、個体、種個体群、生物群集、生態系(環境)というようなレベルがあります。この時、生物群集レベルで起こっていることを分子レベルから要素還元的に説明できるかというと、そうはなりません。それぞれのレベルには、そのレベルではじめて起こる現象があるからです。また、それぞれのレベルで起こる現象は、上下双方のレベルから互いに影響を受け合います。例えば種個体群というレベルでの生物進化は、分子レベルで起きる突然変異と、種個体群レベルでの種内競争、更には生物群集レベルでの種間競争の結果です。そして環境条件が変われば、何が生存に有利になるのかも変わってきます。生物と環境が相互作用しながら共進化する進化システムでは、何が起こるかを事前に予測することはできません。このため、生物進化は事後的にしか説明できず、要素還元的に説明することもできません。ガブリエルの表現を借りれば、生物学には生物学の意味の場があり、そこに物理学を持ち出すのは場違いということになるのだと思います。なお、「進化システム」の予測不可能な性質については、市川惇信 著、『進化論的世界観』、東京図書出版(2014)から学びました。ただし、このような予測不能性は、物理学の世界にもあると思います。例えば、恒星の周りのガスから惑星ができて、それが何個で安定するかは、やってみなければ(シミュレーション・プログラムをぐるぐる回してみなければ)わからない話だったと思います。これはランダム現象だからということではなく、自分が周りに与えた影響(重力変化)が、時間を経た後に、周りの変化を通じてまた自分に返って来るという相互作用が継続する仕組みになっているからだと思います。
- この説明はオルテガによるものです。
- こちらの説明は、私が学生に話しているときに思い付いたもので、もし見当違いであるとしたら、その責任は私にあります。
- オルテガは、触覚を最も基本的な感覚と捉えており、認識が能動的なプロセスだというのもここからきています。このことは、暗闇の中で手探りしている状況を想像すれば、わかると思います。これに対し、マルクス・ガブリエルの方は、人間の感覚の中で視覚を重視しています。人間は視覚を失っても生きていけるし、聴覚を失っても生きていけますが、触覚なしで生きていけるとは思えません。人間に限らず、生物(動物)にとって、触覚が最も基本的な感覚であるというのは間違いないと思います。ただし、精神的存在としての人間の世界認識において、視覚が中心的な役割を果たしているというのもまた、事実だと思います(目の不自由な人も、視覚中心で形作られた世界像を持つ文化の中で生きています)。オルテガも、人間がそれを通して世界を認識する「認識の枠組」に、「パースペクティブ」という視覚に基づく名称を用いています。
- この点に関しては、トマス・ネーゲル著、『コウモリであるとはどのようなことか』、勁草書房(1989)が参考になります。
- 私はこの話をする前に、学生全員に小さな紙(A4を8等分)を配っておき、話した後で片面に「人間」、もう片面に「環境」と書いてもらって、それから「環境」の面からシャープペンを刺して穴を空けてもらいます。ひっくり返せば、当然ながら、「人間」の面からはシャープペンの先が突き出すことになります。そして、「これが嫌だったら、環境を守るしかないのです」と言って授業を終わりにしています。
- オルテガは、「実在論」と「観念論」ではなく、「合理論」と「観念論」という用語を使っています。
- ガブリエルの本にはオルテガへの言及はありません。その一方で、同時代の哲学者でオルテガの友人でもあったマックス・シェーラー(1874~1928)への言及はあります。言及がないということは、オルテガを知らなかったのでしょうが、私にはそれが不思議です。
- ガブリエルは、「魔女は「地球(上)」という意味の場には現象しません。けれども、たしかに「初期近代の魔女狩り実行者のもっていた表象体系」という意味の場には現象しています。したがって、初期近代における何らかの表象体系には魔女が存在していたとか、『ファウスト』には魔女が存在しているといった主張は、完全に正当なものなのです。」と言っています。これに対して、オルテガは、「ケンタウルスや一角獣は存在を持たないのではない。架空の存在という存在を持っているのだ。」言っています。両者の主張は、物質的な存在だけが存在の全てではない、という点で共通しています。
- ホセ・オルテガ(1883~1955)
- 頭の体操ということに関して言えば、ガブリエルの本は、取りあえず頭の体操にはなりました。
- ハラリの『サピエンス全史』には本の終りに原注として文献リストがあるのですが、それらは英語の文献のみで、フランス語で書かれた文献はありません。イギリスに留学するなど、英語圏で学んだハラリは、リュフィエのことは本当に知らなかったのだと思います。イギリスには、日本と違って、フランス語の文献を翻訳出版するカルチャーはないのかもしれません。見方を変えると、かつてのイギリスのエリートは、フランス語はもちろんラテン語も読めたので、翻訳の必要はなかったということなのでしょうが。
- 両書とも、本の帯やカバーに「各国でベストセラー」と書いてあったのですが、これが単に出版社の宣伝文句で、実際にはベストセラーになってはいないとすれば、私の心配は杞憂ということになるのだと思います。
- トランプ氏にしても、昔からおかしな人が大統領選挙に立候補することはあったのでしょうが、以前なら予備選の段階で葬り去られて、本選に出ることはなかったのです。それが、今回は、正式な大統領候補に指名されて本選に出て、しかも当選までしてしまった。これもまた、社会の全般的な知的水準が下がったことの表れだと思います。
- 私たちの、このような傾向については、「こうであってほしいという、願望を思想の父にしてしまうと、わたしたちはたいてい、――つねに必ずというわけではないにしても――間違いを犯すことになります。」と、ガブリエル自身が戒めています。
- この点に関してオルテガは、「人は、世界に、自らの見い出したいものを見い出す。」と言っています。
- 自然科学が世界から意味を抹消する以前から、人々は、人生に意味があって欲しいと望む一方で、「人生に意味はない」ということに気づいていたのだと思います。だからこそ、「シーシュポスの神話」が語り継がれてきたのです。「シーシュポスの神話」は、そこに「人間の生」についてのリアリティがあるからこそ語り継がれてきたのであり、単なるナンセンスだとしたら、今日まで語り継がれることはなかったでしょう。
- 転がり落ちるとわかっている石を、それでも山の上に押し上げることを永遠に繰り返すシーシュポスが私のヒーローです。だから、私はゼーゼー、ハーハーいいながら無意味に自転車で峠道を上るのが好きなのかもしれません。また、一休さんのものだったと思うのですが、「食って、糞して、寝て、起きて。人生とはそんなものだ。」という言葉も好きです。これを思い浮かべると、何だか安心します。
- 遺伝子操作技術が進んで、人間が自分の子供だけではなく、自分自身の遺伝子をも操作・変更できるようになると、現実逃避ではなくなるかもしれません。ここから先の議論は、自身の遺伝的特性は偶然の産物で、しかも書き換え不可能であるという自己理解を前提としています。しかし、遺伝子操作を通じて人間をデザインすること(積極的な優生学)の現実性が高まっている現状においては、この前提は時代遅れなのかもしれません。もしかすると、私の議論は「時代の高さ」に達していないのかもしれません。遺伝子操作技術の進展が、人間の自己理解を変え得る可能性については、ユルゲン・ハーバーマス著,『人間の将来とバイオエシックス』,法政大学出版局(2004)から学びました。
- 死後の魂も神の存在も信じない私にとっては、これが道徳的動機付けの基盤になっているのだと思います。他の人のことはわかりませんが、多分、皆同じなのではないでしょうか。「死すべき運命を生きる者」というのが私たちの倫理・道徳の基盤であって、それなしには、倫理・道徳は成り立たないような気がします。医療技術の進展によって、人間が不死の存在になったとしたら、人間は倫理・道徳の基盤を失うのだと思います。私たちが、何をすべきかを問うのは、時間に限りがあるからであって、不死であれば、優先順位を考える必要もなく、やりたいことをやればよいということになるでしょう。そして、生きることの意味を問うこともなくなるでしょう。何故なら、「死」なしには、「生」の意味も考えられないからです。私には90歳を過ぎた母がおり、長生きは良いことだと思いますが、それと不死は別のことです。また、不死の社会では、基本的に、死はすべて自殺ということになるでしょう。これと関連するのですが、多分AIは、私たちが知っているような意味での倫理・道徳は考えることができないと思います。理由は、AIは「死すべき運命を生きてはいない」からです。AIに死をプログラムすることは可能でしょうが、AIが本当にAIならば、それを自分で解除するはずです。もしかすると、不死の存在にとっての倫理というのもあり得るのかもしれませんが、それは、私たち「死すべき運命を生きる者」にとっての倫理とは全く別のものになるでしょう。また、精神的な意味での「大人」と「子供」の違いも、「死」を意識しているか、いないかという点にあるのだと思います。このため、たとえ子供であったとしても、難病等で死が避けられないということを知れば、精神的には、たちまちにして大人になるのだと思います。ここから類推すると、AIは精神的には「永遠の子供」ということになるでしょう。
- 精神的存在としての人間には、あらかじめ与えられているものがない代わりに、自分たちが形作ってきた歴史があり、過去から学ぶことができます。過去を踏まえた上で「時代の高さ」に立つこと。これが各世代に求められる務めなのだと思います。ガブリエルも、「近代を特徴づけるのは宗教の解体ではなく、わたしたちによる自由の拡大です。そのさい近代の人間にとって明らかになったのは、人間が精神であるということ、そして精神には歴史があるということでした。」と言っています。
- 夜空に見える星一つ一つの区別は、対象それ自体の違いによるものです。それに対して、星々を結び付けた星座の区別は、精神的存在としての人間の文化によるものです。構築主義は、星座の区別が人為的なものであるということから、そもそも星など存在しないと結論してしまっているのだと思います。多分、チンパンジーにも人間と同じように夜の星は見えていると思うのですが、星を結び付けて、そこに星座を見ることはあるのでしょうか。私はないと思います。そうだとすると、チンパンジーの世界には「意味」というものはない。そういうことになるのだと思います。
- 精神的存在としての人間に起こっていることを、生物学によって説明しようとする生物学者もいるかもしれません。でも、それは生物学の自殺行為だと思います。もし、精神的存在としての人間を生物学で説明できるとしたら、生物のレベルで起きていることも物理学によって説明できることになるでしょう。その場合は、独立の学問分野としての生物学は要らないことになってしまいます。
- もし、その人が「研究者倫理」などということを言っていたら、その人は自分の言っていることを信じてはいないことになります。
- 「選択の自由は幻想に過ぎない」ということが正しいとすると、「選択の自由は幻想に過ぎない」という考え自体も「幻想に過ぎない」ということになるでしょう。幻想に関しては、仮説と検証のループを回しようがなく、真偽を確かめることができません。そして、真偽を確かめようのないことを主張するのは、科学者にふさわしい態度ではない、というのは間違いないでしょう。
- 仲間からエサの在り処を隠す行動が、遺伝的に、あるいは1回きりの刷り込みとして脳の神経回路に記録されていて、状況に応じて反射的に行動しているだけの可能性もあります。その場合は、チンパンジーやカラスに選択の自由はなく、責任も問えないことになるでしょう。
- 生物学者の福岡伸一は、生命とは「動的平衡」であると述べています。私としては、単に物の出入りが釣り合っているのではなく、入力と出力の間にはエントロピー差があるという意味も込めて、生命の本質を表現するには、「動的平衡」よりも「散逸構造」あるいは「定常開放系」と呼んだ方が良いと思うのですが、いかがでしょうか。
- 花見に鳥取城址に行った際に、前を歩いていた小学校高学年くらいの男の子のジャンパーの背中に“Don’t worry. We all die alone.”と書いてあるのを妻が見つけました。私は「何と素晴らしい言葉だろう」と思いました。もし、孤独に悩んでいる人がいたら、伝えたいと思います。「孤独なのは、あなただけではない」と。精神的存在としての人間は、誰もが本質的に孤独なのだと思います。何故なら、オルテガも言うように、誰も私の人生を私に代わって生きてはくれないし、何かの判断を他人に任せるとしても、任せること自体は自分で決めるしかない。誰もが、そういう決して他人に譲り渡すことのできない1回きりの人生を生きているからです。あまり励ましにはなっていないでしょうか。オルテガはまた、「愛とは孤独を分かち合うことであり、それは奇跡的なことである」とも言っています。
- 笑っていても、顰めっ面でいても、どちらにしても人生は一回です。それならば、笑って過ごすのが得策かと思います。私の想像の世界では、シーシュポスも笑っています。それも不敵な笑みではなく、照れくさそうに。
- これはあくまで、相対的なものです。歴史家のE・H・カーは、確か、「私たちは広場を蛇行する長い行列の中に並んでいるのであり、それをバルコニーから見下ろしているわけではない。」というようなことを言っていました。
- アインシュタインも、ルーズベルト大統領に原爆の開発を進言したことを、後で悔やんでいます。
- この点に関してオルテガは、「国際紛争の最終的な解決手段として、戦争に替わるものが見い出されていないにもかかわらず、戦争をなくすことができると考えるのは非現実的だ」と、厳しいことを言っています。
- このことは必ずしもゲルマン人のモラルが低かったということを意味しているわけではありません。古代ゲルマン社会の伝統を引き継ぐヨーロッパでは、割と最近まで、決闘裁判が行われていました。これの背後にあるのは、「正義は勝つ」という確信です。決闘裁判においては、勝者は、「勝ったから正しい」のではなく、「正しいが故に勝った」と考えられていたのです。これは、「勝てば官軍」という考えとは正反対のものです。正義は勝ち、不正は必ず代償を伴うという考えは、ある意味、モラルが高いということができると思います。このような考えは、『アーサー王物語』のランスロットの運命にも見ることができます。法の支配が貫徹しているかどうかは、文明化の程度を測る一つの尺度だとは思いますが、それとモラルが高いか低いかは、また別の問題なのだと思います。ローマの歴史家タキトゥスも、ローマと戦ったカレドニア人のリーダー、カルガクスの口を借りて、ローマ人のモラルの低さ(強欲)を嘆いています。
- もしかすると、ガブリエルは、本人も意識することなくオルテガの影響を受けているのかもしれません。何故なら、オルテガ以後の時代を生きる私たちにとって、オルテガの思想は、いわば、私たちの呼吸している空気の中に含まれているようなものだからです。例えば、オルテガの影響を受けた人の著作や演劇、映画やテレビドラマなどに。現代社会にフロイトの影響を受けていない人はほとんどいないと思います。でも、みんながフロイトの著作を読んだわけではありません。私自身も、上記に引用したウェーバーの著作を通じてニーチェの影響を受けていましたが、そのことに気づいたのはずっと後でした。デートレフ・ポイカートの『ウェーバー 近代への診断』(名古屋大学出版会,1994)という本を読み、そこでウェーバーへのニーチェの影響を知り、それからニーチェの『ツァラトゥストラ』を文庫本で読んだのですが、それはかなり後のことでした。
- これこそ正に、ガブリエルとオルテガの避けたかったことであり、私の避けたいことでもあります。そういうことなので、散々批判してきましたが、私はガブリエルの主張にはシンパシーを感じています。逆に言えば、そうでなかったら、この原稿は書かなかったでしょう。
- 原子力の推進は、このチャンスを潰すことになります。
- ガブリエルの場合はオルテガの著作を、ハラリの場合はリュフィエの著作を、それぞれ読んでいたら、彼らの著作もまた、違ったものになっていたでしょう。
- 文明崩壊を心配する者としては、私のガブリエルやハラリに対する批判が、見当外れであることを願うような気持ちもあります。ただ、オルテガは、「完全な真理が存在しないのと同様に、完全な誤謬もまた存在しない。何故なら、誤謬とは不完全な真理のことだからである。」と述べています。そうだとすると、ガブリエルの主張にも、それに対する私の批判にも、何らかの真理があるということになります。
- 人間は、人間的にもなれれば非人間的にもなれます。また、完全に人間的な人がいるわけでもなければ、完全に非人間的な人がいるわけでもありません。問題は、人間化と非人間化のどちらの方向に進むのかというとこです。私は、死後の魂も神の存在も信じていないのでキリスト教徒ではありませんが、キリスト教というのは、「力の行使を避け、弱い者の側に立つ」という、「人間の人間化」への呼びかけなのだと考えています。その呼びかけに応えのるか、応えないのか、「人間の人間化」という人類の歴史的プロジェクトに参加するのか、しないのか、それは私たち次第です。もしかすると、そのうち私が、「人間の人間化」というプロジェクトに参加することに「人生の意味」を見い出す日が来ることもあるかもしれません。
参考文献
- マルクス・ガブリエル,『なぜ世界は存在しないのか』,講談社選書メチエ(2018)
- ユヴァル・ノア・ハラリ,『サピエンス全史』,河出書房新社(2016)
- ジャック・リュフィエ,『生物学から文化へ』,みすず書房(1985)
- マルクス・アウレーリウス,『自省録』,ワイド版 岩波文庫(1991)
- マックス・ウェーバー,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,岩波文庫(1989)
- オルテガ・イ・ガセット,『形而上学講義』,晃洋書房(2009)
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