これからのコミュニティについて(荒田 鉄二:MailNews 2012年6月号)

※ この記事は、KIESS MailNews 2012年6月号に掲載したものです。

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5月20日のシンポジウム

5月20日にKIESSがNPO法人鈴鹿循環共生パーティーと共催したシンポジウムでは,「コミュニティとは何だろうか」という演題で話題提供をさせていただきました。要旨は以下のようなものです。

<地縁的生活コミュニティの衰退>

  • 伝統的な農村社会では,生産コミュニティと生活コミュニティが一致していた。
  • 高度成長期に郊外のベッドタウンから中心都市に通勤するスタイルが定着すると,生産の場と生活の場が分離した。
  • 都市人口が増大する中でも生産コミュニティは「会社」として維持されたが,都市部では生活コミュニティとしての地域コミュニティが十分に形成されなかった。
  • このため,今日の都市住民の多くは,住んでいる場所ではなく,自分が働いている会社にアイデンティティを感じている。

<普遍規範社会と内部規範社会>

  • 社会を普遍規範社会と内部規範社会に分類すると,日本の伝統的な農村社会は内部規範社会だった。
  • 内部規範社会で重要なのは,摩擦を起こさないことであり,普遍的な規範に従うことではない。
  • 都市とは,異なるムラ出身の人間が集まる場であり,そこで人間が平和的に共存するには,それぞれのムラの掟を超えた普遍的ルールが必要になる。
  • しかし,日本では都市化が進展した後も,それぞれに会社という「ムラ社会」(内部規範社会)の中で生きてきたため,普遍規範をベースとする都市の文化が形成されなかった。

<都会における孤立>

  • 日本の都市生活者の多くは,近所に住む住民とアイデンティティを共有しているわけでもなく,共通の規範に従っている意識も持っていない。
  • それぞれに会社という「ムラ社会」で生きている人々は,隣に住んでいても互いに「よそ者」である。
  • ここで退職,離職等により所属する「ムラ」を失うと,日本の都市住民は孤立状態に陥ることになる。
  • 近頃耳にする困窮家族の孤立死や独居老人の孤独死が起こる背景には,このような「都会における個人の孤立」がある。

<コミュニティ再構築の二つの方向性>

  • 「都会では人と人との繋がりが失われている」との問題意識から,コミュニティの再構築ということが議論されているが,そこには二つに方向性が考えられる。
  • 一つは,都会の中に新たなムラ社会(内部規範社会)を構築することであり,もう一つは,普遍規範に基づく都市の文化を創造し,新たな都市コミュニティを構築することである。
  • 普遍規範に基づく都市コミュニティの構築を目指す場合には,多くの人が納得するような普遍性のある規範を見出さなければならない。
  • 今日の世界は,「文明の衝突」といわれるように,普遍規範同士が対立している状況にあるが,このことは,それらを超える普遍規範(大義)を見出すチャンスともいえる。
  • 新たな普遍規範作りに向けては,「将来世代に迷惑をかけない」(持続性)ということが,共通認識の出発点となるかもしれない。

 

普遍規範社会としてのインテンショナル・コミュニティ

普遍性のある規範に基づいて生み出された社会の例としては,エコビレッジを含むインテンショナル・コミュニティ(Intentional Community)が挙げられます。インテンショナル・コミュニティというのは「意図的に作られたコミュニティ」という意味で,そこには既存の社会が抱える問題を克服し,理想の社会を実現するという意図が込められているといえるでしょう。

身体障害者と健常者が共に自給自足の生活をする場として創設されたアイスランドのソールハイマー(Sólheimar)は最も初期のエコビレッジの一つですが,その創設が1930年だったのは時代状況の反映と見ることができます。この時代は第一次大戦と第二次大戦の戦間期で,軍縮交渉がされる一方,各国が臨戦態勢を整えている時代でした。ナチス・ドイツは1933年の政権掌握以降,優生学の名の下に障害者の社会からの排除を組織的に行いましたが,絶滅収容所に送らないまでも,戦争の役に立たない障害者を社会から排除しようとする風潮は他のヨーロッパ諸国でも同様で,ソールハイマーの創設はそれに対するアンチテーゼと捉えることができます。

社会の抱える問題は時代によって異なります。このため,それぞれの時代状況を反映して,「宗教的自由」,「芸術と生活の統合」,「反戦・平和」など,様々な理想を掲げたインテンショナル・コミュニティが作られてきました。日本では,武者小路実篤による「新しき村」が有名ですが,その創設はロシア革命の翌年に当たる1918年で,掲げた理想は「階級闘争の無い世界の実現」というものでした。インテンショナル・コミュニティの掲げる理想の内容はそれぞれに異なりますが,何れも理想であるからにはある程度の普遍性を持たなければなりません。そして,普遍的であるとはどういうことかというと,それは「人間ならば誰でも当てはまる」ということになるので,インテンショナル・コミュニティが掲げる理想は,「人間とは何か」についての哲学的認識をベースとすることになります。このようなわけで,インテンショナル・コミュニティでは,ベースとなる哲学を理解し,それが掲げる理想に賛同することが求められることになります。

ここから必然的に,インテンショナル・コミュニティは,誰がコミュニティの一員で,誰がそうでないかというメンバーシップのハッキリしたものになります。現行の社会に対するアンチテーゼとしてのインテンショナル・コミュニティの一員になるには,それが掲げる理想に賛同したことを示す何らかの手続き(儀式)が必要になるのです。人と人との繋がりや絆を求める人が,「運命共同体」としてのインテンショナル・コミュニティのメンバーになるというのは一つの解決方法といえるでしょう。しかし,都会に住む全ての人を何れかのインテンショナル・コミュニティの一員として組織するというのは非現実的なので,今日の「都会における孤立」の問題を解決するには別の方法が必要でしょう。

 

社会を生み出す原理と維持する原理

コミュニティの再構築ということを議論しているわけですが,そもそも人と人を結びつけ,社会を生み出している力の源はどこから来るのでしょうか。この点に関して,スペインの哲学者ホセ・オルテガは,「未来に対する共通の関心」が社会を生み出すのだと述べています。人々が「自分たちは運命共同体である」という認識を持つこと,それが社会が生まれる前提だというのです。逆に言うと,今日の都会で人間関係が希薄なのは,都市住民は隣人と運命を共有してはいないからといえます。農作業を共同で行っていた伝統社会の場合は,不作になれば全員が困窮することになり,文字通りの運命共同体でした。会社も潰れれば全員が困るので,運命共同体と言えます。しかし,都会の住宅地では,隣人が失業したからといって自分が困るわけでもなく,そこには運命共同体と呼べるような関係はないのが普通でしょう。

「社会を生み出す原理」に頼れないのだとしたら,都会で人と人を結びつけるにはどうすればよいのでしょうか。一つ可能性があるのは,過去の記憶を呼び覚ますという方法です。この際,呼び覚ます記憶は擬似的に作られたものであっても構いません。アメリカでは毎年7月4日の独立記念日を中心に,各地で独立戦争を再現するイベントが行われますが,それは必ずしも歴史的事実である必要はありません。現在のアメリカ人の中には,祖先が独立戦争以降に移民して来た人もたくさんいるし,独立戦争当時には祖先がイギリス軍側にいた人もいるでしょう。ここで重要なのは,個人的な記憶でもなければ,個々の家族の歴史でもなく,アメリカ人が共有する「集合的記憶」としての歴史なのです。それは伝統社会における神話に該当するものであり,独立記念日のイベントは「アメリカの神話」を世代から世代へと伝達し,「過去に関する共通の記憶」を拠りどころとして人々を社会に繋ぎ止めるためにあるのです。そうすると,「未来に対する共通の関心」が「社会を生み出す原理」だとすれば,「過去に関する共通の記憶」(集合的記憶)は「社会を維持する原理」ということができるでしょう。

 

鳥取市鹿野町の取り組み

「過去に関する共通の記憶」を拠りどころとしてまちづくりとコミュニティの再構築を進めた成功例に,鳥取市鹿野町の取り組みがあります。鹿野町は二年に一度開催される「鹿野まつり」が有名で,鎧を着た武者行列や獅子舞,山車やお神輿がでる祭りには多くの参加者と見物客が集まります。鹿野は戦国武将の亀井玆矩によって整備された城下町で,道路や水路の位置,道幅などの街の基本骨格が400年前に作られた当時の形で残されています。現在は街並みの整備が進み,城下町の雰囲気を伝えている鹿野ですが,一時期は鉄筋やモルタル塗の現代風の建物が建てられ,城下町の景観が失われかけたこともありました。更には,若者の流出により,「鹿野まつり」の継続が危ぶまれるという事態も起きていたといいます。このことに危機感を持った鹿野では,旧鹿野町時代の1994年から,「祭りの似合うまち」をコンセプトとした街並み整備が進められることになりました。この街並み整備の中で,行政と並んで大きな役割を果たしたのが2001年に設立された「いんしゅう鹿野まちづくり協議会」(2003年NPO法人格取得)でした。協議会では,旧城下町の民家・商家の表玄関に藍染の暖簾を掛ける(約100軒),古い陶器の醤油瓶に山野草を植え付けて軒下に設置する,屋号の入った瓦の設置する(約160軒)等の活動を通じて統一感のある街並みづくりを進めてきました。協議会はまた,空き家を改修した土産物店やお食事処の開設など,観光拠点の整備も行ってきたのですが,そのデザインは城下町に相応しい街並みの手本となるものでした。街づくり協定の締結が進むとともに,建物前にガレージを作らない,一階をガレージとする場合は格子戸を設置してクルマが外から見えないようにする等,街並み整備ガイドラインに則った建て替えが行われるようになり,今では建て替えがあるたびに街並み景観が良くなっていくという好循環が生まれています。

鹿野の取り組みを人間集団という側面から見ると,それは三重の同心円構造をしているように見えます。中心にいるのはNPO法人の「いんしゅう鹿野まちづくり協議会」というメンバーシップのハッキリした集団で,その周りを日常的に協議会の活動に協力的な住民集団が取り囲み,更に外側を一般住民や県外に住む鹿野出身者が取り囲むという構造です。NPO法人である協議会はある意味,理想を共有する理念集団で,集団の性格としてはインテンショナル・コミュニティに近いものがあります。このため,やり方次第では,その活動はコアとなる協議会メンバーの外には中々広がっていかなかったかもしれません。それにもかかわらず,鹿野で「まちづくり協議会」の活動が成功した秘訣な何かというと,それは住民が共有する「集合的記憶」であり,鹿野出身者がアイデンティティを再確認する場である「鹿野まつり」の舞台を整えたという点にあるのだと思います。現在の「鹿野まつり」には,県外に住む多数の鹿野出身者が里帰りして参加しており,あちこちで同窓会のような情景が見られますが,鹿野の城下町の街並みが失われていたら,祭りが今のように盛り上がっていたかどうかは疑問です。

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鹿野まつりの武者行列

 

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山車を引く様子

 

鈴鹿カルチャーステーションへの期待

鹿野の場合には「いんしゅう鹿野まちづくり協議会」という一つの理念集団を中心にまちづくりが進められていますが,まちづくりやコミュニティ再生に関わる理念集団が一つでなければならないということはありません。鈴鹿の場合でいえば,「NPO法人鈴鹿循環共生パーティー」は持続可能社会の実現を理想として掲げる理念集団ですが,その他にも,福祉,教育,子育て支援など,様々な理想を掲げる理念集団が形成され,その周りに同心円的に人が集まるというのが,これからのコミュニティづくりの方向であるように思います。これを個人の側から見ると,一人の人は一つの理念集団の活動に参加するというわけではありません。一人の人は,ある理念集団にはコアメンバーとして参加し,別の理念集団の活動には協力者として関わるというように,一人の人が複数の理念集団の活動に関わるのです。そして,例えば里山整備など,共同で行う活動に参加すれば,そのこと自体が参加者たちの共有する新たな「集合的記憶」となり,整備された里山はそのシンボルとなっていくでしょう。

都市化の進展と共に人と人の地縁的結びつきが失われると,それに代わるものとしてNPOなどの関心別の結びつきが形成されてきました。しかしながら,全国規模のNPOなど,特定の地域との結びつきを持たない団体では,「個人の孤立」の解消には必ずしも有効とは言えません。現在求められているのは,NPO等の関心別の結びつきをローカルに構築していくことなのだと思います。私たちKIESSが鈴鹿事務所を置かせていただいている鈴鹿カルチャーステーションには,関心別の理念集団が集まる場となり,集団同士の交流を通じて人と人の繋がりを増やしていく,そういう場になることを期待しています。

 

(あらた てつじ:KIESS事務局長・鳥取環境大学准教授)

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