持続可能社会をどう創るか(再考)(内藤 正明:MailNews 2012年8月号)

※ この記事は、KIESS MailNews 2012年8月号の記事に、一部加筆修正を加えたものです。

◇◇◇◇◇◇◇◇

持続可能社会は「人と自然の関係」を見直すことにある

私が一貫して提案してきた持続可能社会は,その本質を一言でいうと,“人は自然の一部である”ことを前提にした社会です。それを「自然共生型」と呼んできましたが,それはどんな姿で,どう創るのかをここでは考えてみましょう。

その前に,これまで人類が目指してきた方向はこれと正反対の,“自然生態系の連関から抜け出し,自然を利用しながら,技術の力で人間にとって快適で便利な社会を作る”,ものであったことを再確認しておきましょう (図1)。我が国は戦後,“産業立国”を目指したために,世界の中でも,この「先端技術型」社会を目指してきた筆頭といえましょう。問題は、今でもその延長線上で社会の将来像を考えている人が多いことです。それは,産業の発展こそが国民の幸せをもたらす,という信念があるからです。しかし,近年は技術・産業の副作用が人類生存さえ脅かそうとしていることは,地球環境問題でも警告されてきましたし,今回の原発事故はそれを一層身近に気付かせてくれました。

その意味では、いまが「技術依存」か「自然共生」のどちらかを選択する最後の段階かもしれません。頭のいい人は,その両方をうまく組み合わせて,いいところを選べばといいます。しかし,それはかなり難しい課題であることを,本号の最後で気付いていただけるのではないでしょうか。

 

1208_naito_fig1

図1:持続不可能な社会生態系

 

持続可能社会の具体的な姿

では,人が自然の一部として生きるとすれば,その社会はどのような姿になるでしょうか。最近は多くの人々がそれに近い発言しています。例えば,レスター・ブラウンは「地球に残された時間」(ダイヤモンド社,2012年)1) などの近著で,これまでの先端技術を発展させて持続社会をつくる (「シナリオA」) ではなく,自然の力と人の知恵を活用した適正技術へ転換する「シナリオB」を主張しています。

もう一つの注目の書は,旭硝子財団による「生存の条件」(2010年)2) でしょうか。これは“太陽エネルギー社会への転換”が副題となっていて,石油漬けの現代社会を,本来の太陽エネルギー社会に戻すべきというのが主眼です。

以上二つの表題が示唆する社会の姿を想像していただくだけでも,これからの持続可能社会がおよそ想像できます。例えば,交通手段は自動車から鉄道,自転車へ,資源は徹底して循環利用し,エネルギーは省エネを徹底すると同時に自然エネルギーを最大限利用する,地産地消を進める,などです。これは私がこれまでの述べてきた中で随所に紹介してきた手段でもあります。さらに,それを進めていくための社会,経済の仕組み,そのような変革を受け入れる倫理観への転換とその教育にも言及しています。

ただし,これらに対しては,本当に自然と共生するところまでは考えられていないようにおもわれるところが問題だと思っています。レスターブラウンはシナリオBも,やはり技術の方向をどうするかであって,社会の仕組みや価値観までは議論の対象になっていません。また,旭硝子の出版は多くの学者のオムニバスなので,人によっては相当理念的な転換を意図している記述がありますが,人によっては相変わらず技術社会の中で,多少の選択を主張しているので,本全体としての立場ははっきりしていません。多くのオムニバス本がこの問題を抱えていて,読む側は気を付けないといけません。特に,肩書きが立派な人ほど,旧来の柵の中で議論していて,もっともらしく聞こえますが,根底の方向が違っていることが多いです。

 

なぜ持続可能社会の実現が難しいのか

このような最近の著作などの多くが,「持続可能社会への転換の必要性とその姿」を記述していますので,改めてここで,繰り返す必要は無さそうに思えます。ただし,大事な論点があるとすれば,このような多くの提言にもかかわらず,なぜ実現に向けて進んで行かないのかということです。一部のヨーロッパ諸国で少しずつ動きがみえますが,世界全体で見ると状況は急激に悪化の方向にあります。また我が国では議論が盛んな割には,目立って変化が見られません。このような状況はどこに問題があるのかを,考えることこそ大事なテーマでしょう。

そのことについても長年に亘って,多くの学者が提案をしてきました。古くから経済学者は「コモンズの悲劇」と称して,人は誰も“共有物はできるだけそれを独り占めしようとする”,と言ってきました。佛教では「少欲知足」と教えてきましたし,他の宗教もほとんどが同様のことを言ってきたはずです。それにも拘らず,文明が進歩したといわれる今日でも,相変わらず強欲が地球コモンズを皆で奪い合って,崩壊の危機に至ってもまだ改まらないのは,それが人のどうにもならない本能だからでしょう。

 

もう可能性はないのか

地球環境に関するあるシンポジウムで,筆者が日高敏隆先生にご意見を求めたところ,「冷房が効いたこんな立派な会場で,環境問題を論じているが,もともとこの場所は自然の生き物の棲家だったんだよね。」と哀しそうな声音でひとこと言われたのが印象に残っています。一瞬“嫌み”ではと思いましたが,そうではなく,“人間はそれほど意識もせずに他のいのちを膨大に奪って、結果として今の気候や生態系の危機をもたらしたことを自覚すべき”と指摘されたことに暫くして気付きました。次は女優の星野知子さんでしたが,「私はもうどうにもならないと思っています。しかし,駄目だと思っても最後まで努力するところに,人の生きる意味があると思います」と,淡々としかし信念を持って話されました。では,星野さんの,「駄目だと思っても最後までする努力」とはどんなものでしょうか?

 

社会変革の具体的な道筋

人類全体が転換するのは,これまでの歴史からとても難しいと思わざるをえません。しかしそれでも,そのような心(倫理観)を持つ人が各地に散見されるようになったのは確かです。そこで,まずそれらの人が家族単位で,これぞ持続可能な生き方というモデルを作ってもらうことです。実は,そのような例が最近は日本の中にもいくつも見られます。その一つは,筆者も傾倒している「麦の家」(滋賀県大津市)です。三世代家族で,ほぼ自給的な生活をしながら,その家,屋敷の佇まいは,山合いに桃源郷が現出したような印象です。自給的などというと,かなり惨めな生活を想像されるとしたら,全くそうではない好例でしょう。テレビの「DASH村」が人気番組であるのも,それと共通する面があるのでしょうか。これら具体例を見ることで,自分でも真似してみたいと拡がっていくことが,進展の道筋です。

次の段階は,コミュニティーレベルの試みです。これは世界にこれまで沢山の例があって,それぞれに特徴を持っています。その系譜を以前にまとめたものを,参考までに付けてみます(表1)。一番の身近な事例の一つは,この「いのちの森」ではないでしょうか。コミュニティーのスケールになると,理念も内容も様々で,誰もが必ずしも賛同しないモデルもありますが,それぞれの価値観に合った事例を見習って,自分たちで創っていくという試みが各地で始まれば,それが次の段階です。その場合,各地の自然,文化,歴史などを踏まえて,独自のものができる筈なので,これからの自然共生型の社会には,標準モデルはありえないでしょう。都市技術文明には,技術システムという世界共通の基盤がありえましたが…

 

表1:エコビレッジの事例(作成:吉積巳貴)

1208_naito_table_thumb

 

では,もう少し大きな,市町レベルではどうでしょうか。こうなると,関心のある者だけが自発的にやればいいというわけにはいかないので,とても多くの難題が生じます。異なる価値観の人達にどう合意してもらうか,その動機付けをどうするか,など日本ではまだ未知の課題です。一つの事例として,私達の研究グループが東近江市で最近行った「東近江モデル」と呼ばれる持続可能社会づくりは,日本では先駆的な例として知られるようになっています(この内容については,ホームページに譲ります)。

そして、次は府県から国の段階ですが,これはまだ私にも見当が付きません。大都会はそもそも自然共生を切り捨ててできたものですから,思い切って先端技術の発展に賭けるのでしょうが,それは私の議論の範疇を越えるので、割愛させていただきます。

 

参考文献

  1. レスター・ブラウン(著),枝廣淳子(訳),中小路佳代子(訳):地球に残された時間 -80億人を希望に導く最終処方箋-,ダイヤモンド社,2012.
  2. 旭硝子財団:生存の条件 -生命力溢れる地球の回復-,信山社出版,2010.

 

(ないとう まさあき:KIESS代表理事・京都大学名誉教授)

◇◇◇◇◇◇◇◇

KIESS MailNews は3ヶ月に1度、会員の皆様にメールでお送りしている活動情報誌です。

KIESS会員になっていただくと、最新のMailNewsをいち早くご覧いただくことができ、2ヶ月に1度の勉強会「KIESS土曜倶楽部」の講演要旨やイベント活動報告など、Webサイトでは公開していない情報も入手できるほか、ご自身の活動・研究の紹介の場としてMailNewsに投稿していただくこともできるようになります。

詳しくは「入会案内」をご覧ください。