改めて、なぜ持続可能社会を目指すべきなのか?(内藤 正明:MailNews 2017年4月号)

※ この記事は、KIESS MailNews 2017年4月号に掲載したものです。

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はじめに

長い間、持続可能社会について論じてきて、従来の専門家仲間での議論の場から、最近は市民、若者、中高生など多様な人々に話す機会が多くなりました。そのこと自体は嬉しいことですが、予備知識や関心の深さ、さらには価値観なども大きく異なる相手にどう話せば、言いたいことが適切に伝わるのかと苦慮する場面が増えてきました。そこで、原点に戻ってもう一度、持続可能社会に関するストーリーを、分かりやすく作ってみようとしたのが、今回の巻頭言の試みです。それは自分自身およびKIESSの活動仲間とも再び理解を共有することにも役立つと思ったからです。

持続可能というテーマそのものが、ここまでは自明だろうとか、ここからは専門家でも議論が分かれるところだというように複雑な問題なので、教科書のような明快な話の筋を作るのは至難の業です。そこで、今回は一工夫として、これまでいろいろな場で出た質問を使って、それに対する一問一答の形で記述してみることにしました。

 

持続可能社会に関する一問一答

Q:「持続可能社会」が世界中で議論になってきたのは何故?

 

A:“ このままでは人類の持続が危ういかもしれないという危機意識が発端” になっています。この危機を証明するデータは既に数多く公表されているので、その直近の代表的なものを要約して図1 に引用します。ただし、専門家の中には異論のある者もいましたが、異常な事態が顕在化してきて、もう学術論争の段階を越えて行動を…という状況になってきたというべきでしょう。

 

図1:世界的な温暖化の状況1,2)

 

Q:何が原因で、こんな事になった?

 

A:長くて複雑な話になるが、その要点だけを簡潔に解説しましょう。
最初の出だしは、「特に20世紀になって、人々が余りに多くのものを求め、それが叶えられる状況が作られた」ことでしょう。
人類が多くを求めるのは、「自然の本能」ともいえますが、それが際限なく叶えられる状況を作ったのは、「近代の技術」とそれを支える「膨大なエネルギー(特に石油)」の発見・利用です。これと「近代経済」の仕組みが、クルマの両輪となって働き、事態をここまで進行させたといえましょう。

 

Q:「近代技術」こそ、人類にこの豊かさをもたらした優れものではないのか?

 

A:「近代技術」の功は多大なものがあるとしても、功が大きいほど副作用も大きいのが自然の摂理です。近代技術のもたらした罪については、すでにこれまでも様々に論じられています。そのような過去の罪に加えて、その最大で究極のものは、「膨大な石油消費に依存」していることによるものです。現代は、工業技術だけではなく農業技術や生活・交通などすべてにわたって、石油多消費の技術によって営まれています。現代の豊かさとはまさに「石油多消費」に支えられて実現したものです。世界のGDPは石油消費とほぼ比例してきたことが、それを示しているでしょう。
その石油消費が最大の原因となって生じたのが、「地球温暖化」です。そこで、いかに石油からの二酸化炭素を減らすかを最大の目的として「持続可能社会」が提唱されたのです。
つまり石油消費を大幅削減するには、現代社会のあらゆる活動を変革(抑制または転換)することを要求します。そのために目標として、まずは「低炭素社会」、そして遂に「脱炭素社会」への転換が世界中で合意されたのです。

 

Q:「近代経済学」は、公平で自由な市場競争をその基にした勝れた仕組みでは?

 

A:「近代経済学」は、お金の動きを的確に把握するための純粋な計量モデルの世界で完結しています。それが、近年さまざまな問題を生んできたので、それについての議論がされてきて、“ そもそも近代経済学の論理に欠けたものがある” という問題提起がされています。
それは大きく二つあって、一つは、「物質やエネルギー、環境など」が考慮に入っていないということです。現にこれらは近代経済学が自ら「外部不経済」と呼んで除外してきた要素です。そこで、「生命系の経済学」、「エコロジーの経済理論」、「環境経済学」、などと多くの経済論がかなり以前から提唱されてきました。しかし残念ながら、これらは「異端派経済学と呼ばれて、主流派には入れてもらえないのです」ということです。
もう一つは、「倫理」です。そもそも経済学入門程度で覚えているのは、“ 誰もが自分の欲を最大限追求することで、結果して社会全体の幸せになる。”ということで、これが、神の見えざる手と呼ばれる「市場原理」だということです。
この論理では、個人の善悪などが表に出てくることはなく、人間本来の欲望全開?で取引すれば、市場がうまく調整してくれて、純粋に数学論理として扱えるということです。もしそれで問題がなければすばらしいことです。
しかし、この経済理論に従ってきた現実の経済が、いま深刻な問題を引き起こしています。それは、巨大な経済格差です。その原因が、近代経済学の理論に欠けている「倫理」にあることを指摘しているのが、いま話題になっている「善と悪の経済学3)」です。
この著書は大作ですが、その要点を一枚の図で描くと図2のようになります。つまり、古くから様々の経済の仕組みの中には、その金の回り方に何かの規範(神の教え、社会の正義、思いやり)が加味されていたということです。それを全く除外した近代経済学が、今日の大きな社会問題(弱者排除=社会的格差)の背景にあるということになるでしょう。

 

図2:経済と倫理

 
 

再び地球環境問題の原点に戻って
結局は「弱者へのツケ回し」

以上のように、近代の経済の理論は「自然環境や資源」と「社会的弱者」という、力を持たない弱者を虐げることになっているというのが結論です。結局、皆が必死で求めた経済の発展というのは、その過程で生じる巨大な負債(ツケ)を、どこか弱いところ文句が来ないところに押し付けることで成り立ってきたという事実を、再確認することです。それは経済学の世界では「経済システムの外部(=外部不経済)」として扱ってきました。その「ツケ」がいよいよ限界を超えて、私たち自身の生存基盤を崩壊させるところまできたのが、今日の人類持続の危機であるということです。

思い返すと、そのことは私が40年も前に初めて書いた「環境システム工学4)」で提起したことであるのに気づきました。そこでは素人ながら、経済発展の「ツケ」が押し付けられるのは、“ 物言わぬ(言えぬ)弱者”であって、それは具体的には

  1. 社会的弱者(経済的、社会的、肉体的、人種的…)
  2. 自然的弱者(人間に利用価値のない生物)
  3. 世代的弱者(将来世代)

であると定義しました(図3)。それが今、このような状況になって、改めて論じる価値があるのではないかと気づきました。そこで、かつての提言をここに再整理してみようと思います。

図3:3つの弱者へのツケ

 

「将来世代」へのツケ回し

そもそも地球環境問題が話題になったときに、まず言われたのが「将来世代の生存権」を奪っていることに対する問題提起でした。将来世代はいま選挙権もありませんし、裁判では代理者による「原告適格」もないので、どんなに不利を被っていても文句を言えぬ弱者です。資源の枯渇や生存基盤である地球環境、自然の生態系などが急激に消滅して、将来世代どころかいまや孫・子の世代さえ危うくなりつつある感じです。

近代の“ 倫理なき” 経済学にこの面への配慮を加えることは、環境税とか排出権取引など外部からの制約として可能ですが、そもそも倫理無き経済を善しとしている国の政策決定者がそれを受け入れることは難しいでしょう。

 

「自然的弱者」へのツケ回し

物言えぬ弱者のもう一つの代表が「自然の生物・生態系」です。人間の欲望のためにどれだけ多くの生物種が絶滅し、また危機に瀕しているかという情報はたくさん出されています。その原因はもちろん人間の欲望にありますが、それを端的に表現した記事を要約して図4に引用します。ここまで明らさまに言うか…と言いたくなりますが、事実はその通りですね。いかに人間は自らの欲望のためには他を収奪するかということを、改めて認識する必要があるのでしょう。
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(クリストファー・ロイド「137億年の物語」5)に著者加筆)

図4:生物多様性の崩壊の原因は…

 

「社会的弱者」へのしわ寄せ

最近は特に、社会的弱者の問題が関心をひいていますが、それだけ事態が深刻化しているということでもあるでしょう。世界的にも我が国でも、社会的格差は大きくなってたくさんの経済的弱者が生まれていますが、同時に障害を持つ人たちの課題が顕在化しています。

問題は社会全体がそのような弱者配慮という倫理観の高まりと同時に、排除の気分の高まりが感じられます。それは、国が目指す国是とかかわっています。戦前の「富国強兵」時代は、男は徴兵検査を受けて身体能力でランク分けされました。当然、弱者は邪魔者であって、日本でもドイツでも排除の対象になったことは歴史的事実です。いまは国が経済発展を目指しているので、経済成長に役立たない者はどうしても排除されます。

一般に組織は、独自の目的を持てば「機能体」と呼ばれて、構成員は組織のために貢献を求められます。一方、「共同体」というのは、そもそも構成員の幸せを図ることを目的とする組織です。このことを分かり易く図に描いたものが図5です。社会的弱者はメンバーの幸せを目的とする組織(共同体)でなければ救われません。富国強兵を目指そうとする気配の強い今の政府では、弱者がお荷物として扱われるのは本質的に仕方のないことです。ここでの福祉というのは、強者からの富が“ したたり落ちてくる” のを待っていろということのようです。

図5:機能体と共同体

 

真の「持続可能社会」を目指す原点は?

社会的弱者を尊重すべき論理は、かなり難しい議論が必要です。ただし、社会的弱者排除が自然的、世代的弱者排除と一体で、その原点は、人間の開くことなき我欲の追求にあり、結局、社会問題も地球問題も原点は、「利己性をどこまで排し、利他を図れるか」に掛かっていると思います。

では、「利他性」がどの程度であるべきか。その判断根拠は、生命の最終目的である「遺伝子を繋ぐ」ということに、どの程度の利他性が適切かで判断すべきでしょう。ワイルドな野生の世界で生きているなら、利己性100%で弱肉強食の生き方が適切でしょう。しかし社会的動物として、他者と共に協力して生きる道を進んだサピエンスとしては、利他の心がどうしても必要になります。したがって、利他心が利己心を上回るような人は、きっと“ 良い人(周りの人との関係性において)” と呼ばれて、皆から好意を持たれるでしょう。しかし、利己心が大きく勝っている人は、周りから敬遠されますので、強欲で生きていこうとするのは、人間社会ではかえって逆効果になります。

ここで、(少なくとも人間関係において)” 良い人“ の尺度は、利己性に対する利他性の割合で定義される、というのが筆者の提案です。なぜすべての宗教が、「強欲」、「我欲」を諫めて、他人のために(望むらくはお返しを期待せずに?)譲ことを教えているのは、ただ良い人をつくるためというより、それなくしては結局「人類の持続」が不可能だよという示唆ではないでしょうか。

 

  1. American Meteorological Society:State of the Climate in 2015,https://www.ametsoc.org/ams/index.cfm/publications/bulletin-ofthe-american-meteorological-society-bams/state-of-the-climate/,2016.
  2. World Meteorological Organization:NASA analysis confirms July 2016 as warmest month in 136 years,https://public.wmo.int/en/media/news/nasa-analysis-confirms-july-2016-warmest-month-136-years,2016.8.17.
  3. トーマス・セドラチェク( 著), 村井章子( 翻訳):善と悪の経済学,東洋経済新報社,2015.
  4. 高松武一郎, 内藤正明, Liang-Tseng Fan:環境システム工学,日刊工業新聞社,1977.
  5. クリストファー・ロイド(著), 野中香方子( 翻訳):137 億年の物語 -宇宙が始まってから今日までの全歴史,文藝春秋,2012.

 

(ないとう まさあき:KIESS代表理事・京都大学名誉教授)

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